高校生のための文章読本(編集) 梅田 卓夫, 清水 良典, 服部 左右一, 松川 由博
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昔から文章が苦手だった。
文章に限らずとも、自分の感情をきちんと表現するすべが果たしてあるのかどうかさえ疑わしかった。とりわけ文章は最難関と感じていた。
今思えばその原因の一つは、文章を書く習慣の不在である。およそ子どもが交流関係を持つあらゆる人間は、文章なんかで話したりすることはほとんどない。うちの親父など口でさえ意思表示することはない。存在自体が言語だ。こういう状況では、文章で何か言うと、その行為自体が浮くのである。
夏休みの課題等で出る読書感想文も苦手だった。読書すればそれなりに感動するのだが、その感動がどんな形をしたものであるかを言葉で伝えあうことはまずもってなかった。考えてみればガキの世界では、ほかと違うことは負い目である。感想は「ない」もしくはみんなと一緒ということで落ち着いてしまう。これでは感想など書けるはずがない。自分の感じたものは書けず、普通にひとが感じるようなことを書けば嘘になる。原稿用紙を前にしたときのジレンマだ。
願わくばこのジレンマを解決するものが国語教育であって欲しかった。しかし、中学・高校と受け持たれた国語教師の教育理論は、受験国語は中1から始めれば必ず克服できるというものであり、初めから受験国語以外の国語はほぼ頭になかった。何か一つの作品について、感じ方や考え方を述べあい聞きあうという体験は、正直国語の時間を除けばもう未来永劫ないように思うのだが、それは彼の国語ではなかったらしい。ひたすら問題演習中心の単純錬成型授業だった。なかなか痛い損失であるような気がする。
そんな高校生活を送っていた頃、学校の帰りの書店でこの本を見つけた。高校生のためと銘打ちながら、受験のためではない、もっと重要なものを語りかけているような感触だった。天国を見たような心地がした。しかしうちの家庭環境は当時複雑で、買えずじまいであった。
大学に行き、親の呪縛から解き放たれ、色々なことを体験してみると、自分というものをはっきりと表示することは生活上必要の行為であった。黙っていては分からない。存外人は鈍感だ。とりわけ大学関係者は(仕事と研究対象以外には)鈍感であり、そもそも親というものが鈍感の極致だった。僕は遂に自分という複雑な存在を、誰からも分析されないままにこの年齢に達していた。社会と適切に関わっていく能力も従って乏しかった。こういう状態では研究などできるはずもない。むしろ研究対象だ。
僕は色々とこの自分というものを表に出すために手段を試し、悪戦苦闘していたと思う。しかし結論は、現実問題として文章しかないということだった。理由の一つは予算である。予算がなくてもパッと見、見劣りがしない表現方法は、文章しかなかった。
小学校以来忌まわしい想い出ばかりの文章であったが、こうなったら前向きに向き合わざるを得ない。そんな感じを持っていたとき、この本を思い出した。あの時この本を見つけた大型書店は既にツブれていて、絶版も危惧したが、Amazonを探すとまだ売っていた。節約のために古本を買った。
開いてみると、ああ、あの時の直感は正しかったんだなとしみじみと実感した。この本はまさに文章のアンソロジーだ。あなたの中にある気持ちはこれですか?それともこれですか?と、扉をやさしくノックするように、色とりどりの文章表現が語りかけてくる。そして、それだけではない。人が文章を書く際に直面する様々な葛藤やジレンマについて、丁寧に取り上げて考察もしているのだ。
高校生のための三部作:
◇ 文章読本
◇ 批評入門
◇ 小説案内
いずれもちくま書房
より刊行。